吉原の興り

江戸幕府公認の遊郭「吉原」


江戸時代前期に誕生

徳川家康が江戸に幕府を開き、日本の政治や経済の中心は、豊臣政権の大阪から江戸へと移り変わっていきました。もともと質素な土地だった江戸が日本の中心となり、様々な店が立ち並ぶようになりました。その中には当然、遊女屋も含まれていました。しかし、江戸の都市開発のために、強制的な移転が行われていたそうです。特に遊女屋は、風紀を乱すという理由で頻繁に移転をさせられていたと言われています。そのあまりの多さに困り果て、庄司甚内という実力者が江戸幕府の許しを得て、各地に分散していた遊女屋を日本橋付近に集めたのが、吉原の始まりと言われているようです。

吉原の語源

江戸の郊外に作られた遊郭「吉原」。この名前は、吉原の開拓者である庄司甚内が東海道にある吉原宿という宿場だったためと言われています。あるいは、この日本橋付近が当初は葦の生い茂る土地だったために、「葦の生えた原」から「葦原」。「葦(あし)」の読みが「悪し(あし)」と同音のために、縁起をかつぐために「吉(よし)」として、「吉原」になったとも言われています。なお、この「吉原」は「よしはら」ではなく「よしわら」と読みます。

火事が多かった吉原

江戸は急速に発展し、家々が密集していたために、しばしば大火事に見舞われることがありました。この吉原も例外ではなく、江戸の大火に何度も見舞われたそうです。そのため、最初に所在していた日本橋を大火で失い、移転して現在の東京都大東区千束4丁目と3丁目の一部に落ち着いたと言われています。この土地は現在の日本一のソープランド街として栄えており、江戸時代の名残を脈々と受け継いでいます。

社交場としても栄えた吉原

江戸時代に生まれ栄えた吉原は、単なる遊郭としての機能以上のものを兼ね備えていました。江戸時代に入り、文化や政治の中心として急成長し、参勤交代に代表されるよう全国の大名や文化人が江戸に集まるようになった江戸。そのため吉原の遊郭は、大名や文化人が集まり、そこで情報などを交換し合うサロンのような役割を果たすようになったとも言われています。また遊女たちの教養も高く、一流の遊女になると和歌や茶道など高い文化教養を身につけていたとも言われています。さらに1度目や2度目に訪れた客とは交わらず、3度目に訪れて馴染みとなった客に対して、ようやく体を許すということもあったようです。